5月14日のブログで「新聞記者がストリッパーで何が悪い!」と書いたら、保守主義?の記者さんから「牧は、ああ言うけど、ストリッパーが書く記事を喜ぶ読者がいるのか?」という悪口が聞こえて来た。
だったら、専業記者の書いた記事なら、何でも喜ばれるのか?
大学の先生が書いた主張なら何でも喜ばれるのか? 「金持ち」が書いたコラムなら何でも喜ばれるのか?
記事は中身だ。書いた人間の社会的地位とは関係ない!
それより、僕が言いたいのは「労働者と組織」との関係が変わりつつあること。
カール・マルクスは「近代の産業労働は大半が非人間的で、人間の価値を貶めている」と主張した。労働者は「いやいや仕事をしている」という分析だ。「いやいや」でなくても、会社人間は、大きな決断を会社・組織に委ねる。組織と労働者の間には「親子」のような関係が出来ている。
もちろん「悪い親」もいる。そこで、労働者の権利を守るため、労働組合が作られた。
サラリーマン人生の本質は、この「親子関係」にある。組織の言いなりになれば、出世出来る。退職金もバッチリだ。
しかし、時代は変わった。
「自分のやりたいこと」を職業にする若者が増えた。仕事が「明日の喜び」に繋がる選択。それが出来る時代になった。
一つの例が「非営利団体で働く人たち」である。
「社会的な目的」を果たすことに力点を置き、職業を選ぶ。
給料、出世、待遇とは関係なく「好きな仕事」「社会のための仕事」を選ぶ。
「会社人間」にはならない!という選択である。大震災以降、この「選択」はさらに広がるだろう。
マルクスの「いやいや働く労働者」とは大分違う「好きなことを選ぶ労働者」が多くなった。昨今、労働組合が弱体化しているのは、その証拠ではあるまいか?
その反面、世界的な不況。ヨーロッパでは数カ国が「若者の半数近く」が失業中である。若者の選択は、一方で広がり、一方で狭まりつつある。
その複雑な時代背景の中で「兼業問題」が起きる。
米テキサス州の地元紙ヒューストン・クロニクルの元女性記者が「ストリッパーの職歴」を理由に解雇されたのは性差別に当たるとして、11日までに連邦政府の雇用機会均等委員会に申し立てた。
彼女は新聞記者、大学の非常勤講師、ストリッパーを兼業していた。3つのうち「社会のためになる」と思ったのは、どれだったか?多分、3つとも「社会のために」と思ったのだろう。
会社人間で出世するつもりはない。格別、高い待遇を求めるわけでもない。
それなりの収入を得て、「好きな仕事」を次から次へと経験したい……という選択?
「新聞記者は片手間で出来る仕事ではない!」と同僚記者さんは言う。
その通りだ!
でも「権力」に寄り添って「権力」の顔色ばかり気にする「専業記者さん」が、それほど「社会のため」になっているとも思えないのだが(笑)
<何だか分からない今日の名文句>
マルクス主義は消えた!