青木幹雄さん死去。「闇」を知る「竹下登の二人の青木秘書」がいなくなった

 ミキオさんが亡くなった。

 小渕内閣で官房長官を務め、その後も「参院のドン」として、政治の裏舞台を演出した青木幹雄さんが11日午後、死去。89歳だった。

 早大雄弁会時代に選挙を手伝った縁で、故竹下登元首相の秘書となり、その後、参院議員として活躍。2000年、当時の小渕恵三首相が脳梗塞で倒れた際、首相臨時代理となり、後継首相に森喜朗さんを選んだ。(これが、間違い!)

 「有力者5人組による密室談合」と世間から批判されたが、その後も、長いこと「竹下派」の事実上の帝王だった。

 (その頃、政界は、早稲田雄弁会の「天下」だった)

 青木さんのことは詳しくない。ただ、気狂いじみた「競馬好き」だったことは知っている。要職についていた時にも、ミキオさん、顔を隠して、ウインズで馬券を買い続けていた。(何度も、気狂いじみた馬券好きの当方、後楽園のウインズで彼に会った)

 「青木秘書」と言えば、僕にとっては「青木伊平」さんの方が想い出が深い。

 青木伊平さんも竹下登さんの秘書。島根県大社町出身で、竹下さんが首相の座に上り詰めるまで、30年間にわたり秘書を勤めた。

 当方が記者だった頃、青木伊平さんは

「竹下の金庫番」。竹下事務所の経営を一手に引き受け、竹下さんが首相に上り詰めた後も「巨額な資金」を調達していた。

 その頃、記者たちは「竹下5億円 ○○3億円 ○○1億円」と書かれた「青木メモ」の存在を追っていた。

 「金屏風」と言う絵の売買を装って、闇資金を作る工作。10億円の絵画を20億円にしてしまう。

 3人が「山分け」して9億円。残りを画商が儲ける。

 この種の「闇献金」問題が重なり、竹下さんは記者会見で退陣を表明する。

 伊平さんは、その翌日、1989年4月26日、自宅の寝室で首吊り自殺を遂げてしまう。

 この日のことは鮮明に覚えている。

 「秘書」という稼業の「悲しさ」にちょっぴり泣いた。

 ベッド脇には、夫人や竹下さんに宛てた遺書が4通残されていた。

 その遺書に何が書かれたのかは、分からない。

 「竹下登」を支えた「二人の青木秘書」は優秀だった。

 そして、それそれ「秘密」を棺桶に納め、あの世に行った。

 冥福を!

<何だか分からない今日の名文句>

秘書は一流、記者は二流、政治家は?