22日は午前中、ルネサンス両国で筋トレ。師匠の中澤マイケルから「全日本空プロレス 参戦」の真意を聞いた。
一部メディアに載った「マイケル、KAIとの一騎打ち要求!」という記事のことだ。
16日、ケニー・オメガvs.近藤修司の世界ジュニア選手権の会見後、ケニーの通訳として会見に出席していた師匠(DDTの中澤マイケル)が、KAIとのシングルマッチを全日本に要求した。
先シリーズの開幕戦2・3後楽園大会でのケニーvs.カズ・ハヤシの世界ジュニア戦後、挑戦者として名乗りを上げたKAIを、イスで襲撃するという暴挙を働いていた師匠。
調子に乗って、「KAIさんよ、おまえにケニーはもったいねえ! セコンド、通訳ナンバーワンの俺で十分だ! 全日本さんよ、DDT最ヨゴレの俺を使う勇気があるか!?」と一騎打ちを要求。ついに決戦が実現した。
中澤は「4大シングルマッチが組まれていますけど、4という数字は縁起が悪い! 昔から5が縁起がいいんですよ! だから、僕とKAIのシングルマッチを入れて、5大シングルマッチにしてください!
怖いんですか!?」 と訳の分からない言い分で、全日本側を煙にまいた。
親友の? ケニーも「中澤はDDTでは必要とされない人間だけど、全日本のレスラーだったら全然通用する。KAI相手でも大丈夫じゃない?」と太鼓判。
KAIは怒り心頭。「中澤は素人。俺に、通訳とやらせるのか?」と喚いているらしい。
筋トレの弟子である僕の推理だが、師匠、一度はメジャーの全日本のリングに乗るのが夢だったのでは無いか?
全日本プロレスは、1972年(昭和47年)7月29日、ジャイアント馬場が、日本プロレスを退団、自ら作った団体。
日本テレビのバックアップを受ける形で、馬場は渡米してサーキットを行い、その上でフリッツ・フォン・エリックやドリー・ファンク・シニア、ブルーノ・サンマルチノなどの有力者に接触し協力を要請し、豪華外国人レスラーの招聘に成功した。
日本プロレスの若手選手だった力道山の遺児、百田光雄、リングアナウンサーの百田義浩を加え、役員として力道山未亡人の・百田敬子も旗揚げに参加したことで「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功した。
その意味では、元祖プロレス。新格闘技とは違う。
決戦を前に、師匠は「KAIはチャンピオンだった男。強いですよ」と弟子の前では、実に紳士的だが、リングに立つと、師匠は一変する。
KAI! 通訳と、通訳とバカにするな! 師匠はプロレス界最高のインテリ男なんだぞ!
師匠に勝ってもらいたい。
決戦は……全日本プロレス『40th Anniversary Year HOLD OUT TOUR 2012』開幕戦
3月4日(日)東京・後楽園ホール 試合開始12:00
さて、22日は野暮用ばかり。スカパーのチュナーを交換したり……。
23日は(もちろん秘密だが)僕も挑戦? の予定。ちょっと緊張気味。
<何だか分からない今日の名文句>
王道プロレス