組織の朝日、人の毎日……だから、毎日新聞には、スター記者がワンサといる。
近藤 勝重さんもその一人。
愛媛県新居浜市の出身。早稲田大学政治経済学部新聞学科では、僕の一年下だったらしい。卒業後に、地元・愛媛県の南海放送で記者をしたあと、1969年、毎日新聞に移籍した。
駆け出し時代から、社会部の名物記者として名を馳せ、「大阪にコンちゃん節あり」と聞いていたが、縁がなく、面識もなかった。
実は、サンデー毎日の編集長だった頃、上司から「先のことになるが、後任は誰が良いか?」と聞かれたことがある。「出来れば、朝比奈か、出来れば、大阪のコンちゃんが良い」と話した。
「朝比奈は社会部長候補だから。編集局が離さないだろう。で、なぜ、近藤なのか?」と聞かれた。
彼の仕事ぶりは、鳥ちゃん(僕の前の編集長、鳥越俊太郎)から聞いていた。「週刊誌の編集長に打って付けの人らしいですよ」と答えた。
鳥ちゃんは、政治部デスクの僕を、編集長の片腕になる「別冊編集長」に引き抜く時「牧がダメなら、コンちゃんが居る」と考えていた節があった。
だから「近藤編集長」は適任、と思っていた。
ところが、突然僕が脳卒中で倒れ、社は後任を探した。僕に相談がなかったのは、僕がロクに喋れなかったからだろう。
社は、僕の社会部時代、仲の良かった人物を選んでしまった。
良い奴だが、週刊誌には不似合いだった。で、部数を減らした後、社は編集長の交代を決意した。
「近藤勝重しかない」と皆が思ったのだろう。近藤編集長が実現した。
近藤編集長は名編集長だった。3年以上勤め部数戦争でも、善戦した。流石だった。
しかし、コンちゃんを皆が絶賛するのは「その後のこと」である。
サンデーの編集長を終えた後、彼は「夕刊編集部」を立ち上げた。
毎日新聞夕刊の2面を使って「デイリーマガジン」とでも言えば良いのか、一般紙で初めての「夕刊で週刊誌風の記事を読ませる挑戦」を始めた。
面白い。また読みたい! そんな記事ばっかりで、あっという間に「夕刊は毎日!」と言われるようになった。
僕は「近藤流夕刊の週刊誌化」と呼んだ。
夕刊編集部が出来てから15年目を迎えた。
19日夜、アラスカで記念パーティーが行われた。盛大だった。近藤さんの片腕のだった広岩もやって来た。
朝比奈社長が挨拶をした。
あの時、朝比奈さんがサンデーの編集長になっていたら、朝比奈社長はなかったかも知れない。
近藤さんがサンデー毎日の編集長にならなかったら、毎日新聞の売り物「夕刊特集ワイド」面は出来なかっただろう。
会場で、突然「あいさつ!」と言われ、戸惑った。
夕刊ワイドで、はじめからコラムを書いていたので、指名されたのだろう。突然の指名で、肝心なことを言えなかった。で、ここに書いておいた。
近藤さんは、夕刊編集長を後輩に譲ったが、多分、今でも相談に応えているのだろう。コンちゃん流の味付けは変わらない。
そうそう、彼は夕刊で僕と同じようにコラム「しあわせのトンボ」を連載している。彼は僕のライバル?
彼の「ほのぼのとした筆使い」には、敵わないけど。
毎日新聞には、人という「宝」がある。
<何だか分からない今日の名文句>
継続は「新聞の力」