「力道山を刺した男」が死んで……

 新聞のベタ記事に「遠い昔」を思い起こすことがある。( ベタ記事とは紙面下に「ベタッと並べられた記事」のこと)
 4月14日、東京新聞朝刊社会面のベタ記事「力道山刺した74歳が病死か」。読んでみると……。
 戦後の国民的ヒーローだったプロレスラーの力道山をナイフで刺したとして、懲役7年の判決を受けた当時暴力団組員の村田勝志元受刑者(74)が4月上旬に都内で死亡していたことが13日、関係者への取材で分かった。病死とみられる。
 村田元受刑者は1963年12月8日深夜、東京・赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クオーター」で力道山と口論の末、持っていたナイフで腹を刺した。この傷が遠因となり力道山は1週間後に死亡した。
 これしか書いていないが、当日、大学生の僕には「大事件」だった。とにかく、力道山は国民的な英雄だった。
 運命の昭和38年12月8日。相撲協会の高砂親方が相撲関係者を伴って力道山に面会した。
 「朝鮮人だから、大関になれない」と憤慨して、相撲協会から脱会した力道山。これは嬉しい出来事だった。
 相撲協会の幹部が頭を下げて「大相撲ロサンゼルス興行」の相談にやって来た。
 力道山は上機嫌で、料亭に親方達を招待し痛飲。予定されたTBSのラジオ番組は酔っ払って収録ができなかった。
 TBSをあとにした力道山は赤坂のニュー・ラテン・クォーターに向かった。が、すでに泥酔に近い状態だった。
 午後10時30分ころ、事件は、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で起こった。
 ここからは「加害者・村田勝志元受刑者」が大下英治のインタビューに答えたことである。
 女性と話していた力道山の横を村田さんが通り掛ると力道山が「足を踏んだ」と、後ろから村田さんの襟首をつかんだ。
 村田さんは「踏んだ覚えはない」と反論。口論となる。
 「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放つ。
 この時、村田さんは懐に手をやる。それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山が「わかった。仲直りしよう」と言い出す。それに対し村田さんは「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。諦めた力道山は村田さんの顎を拳で突き飛ばす。
 力道山は馬乗りになり激しく殴打。村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかった。
 力道山は、応急手当を受け帰宅。村田さんの親分筋の小林楠扶さん(住吉一家大日本興行の超大物)がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すように答えたという。
 翌日、症状が悪化。入院、外科医に山王病院へ来てもらい30針縫う手術を受け成功した。
 ところが、 約1週間後、腸閉塞を起こし再手術。これも成功したと報じられたが、その約6時間後、午後9時過ぎに、力道山は死亡した。
 死因には諸説ある。
 村田さんの裁判でも、死因究明のため提出されたカルテの中に麻酔に関するものだけなく、最後まで「紛失した」といって提出されていない。
 付き人に「寿司を取れ!」と命じ、酒も買わせたらしく「生もの」とアルコールが、完全に完治していないカラダにとって「致命傷」になったという説もある。
 (遺族の希望で遺体は慶応病院で解剖された。その結果、担当医は「傷口の洗浄不備と麻酔の過剰投与が原因」と言っていた事が後年、判明している)
 「英雄・力道山」が些細なコトで死亡した。大学生の当方は、ショックを受けた。
 で、約10年ぐらい経って警視庁捜査4課担当(暴力団担当)になってから、この殺傷事件を、ちょっと調べてことがある。
 犯人の村田さんは懲役7年の刑を言い渡されて刑期満了で出所した。が、かなり「重い刑」ではなかったか?と思った。
 国民的英雄が被害者になったことを考慮したのだろうが……。
 その後、村田さんは住吉連合会系村田組の組長になっている。
 犯人が住吉連合会系。被害側の力道山のバックが東声会。
 報復合戦があるのではと危惧されたが、双方のトップと、仲を取り持った山口組の田岡一雄三代目組長との3者協議で、和解が成立している。
 最近、と言っても10年ぐらい前だが「力道山を刺した男の娘」というキャッチフレーズで格闘技界に殴り込んだ女性が現れたが、その後、情報はない。
 「力道山を刺した男」が74歳でなくなり「戦後」はまた遠くなった。
 さて、この週末。野暮用で皐月賞に行けなかった。
 で、馬券は?軸にしたコディーノが三着。3連単マルチで、辛うじて元になった(笑)。

<何だか分からない今日の名文句>
「おれは死にたくない」(力道山の最後の言葉)