6日、早稲田大学でも、毎日新聞社会部でも先輩に当たる堤哲兄から「早龍会50年記念号」なるものが贈られてきた。
「早龍会」という団体があることも知らなかった。
1964年3月に卒業した体育局運運動部39部の同期会のことだという。
この面々、ことし、卒業50年。その節目の年を記念して「早龍会50年記念号」を自費出版した。堤兄は編集責任者。A4判、144ページの大作である。
彼らは激動の「60年安保」の年に入学。その秋、あの「早慶6連戦」を経験している。
1960年秋季リーグ戦。最終週の早慶戦の前まで、
慶 應 8勝2敗、勝ち点4
早稲田 7勝3敗、勝ち点3
優勝の可能性は早慶2校に絞られた。
慶應が順調に勝ち点を積み上げたのに対して、早稲田は直前の明治戦で4連戦の末に、勝ち点を落としてしまった。
早稲田が優勝するには連勝するか、2勝1敗で慶應と同勝ち点・同率となって優勝決定戦を勝たなければならなかった。
慶応、断然有利!しかし、奇跡が起こった……この「世紀の早慶6連戦」は日本中を夢中にさせた。高校生だった僕は、テレビで見て「早稲田に入ろう!」と決めた。
「早龍会50年記念号」には、その6連戦のスコアブックが載っている。これは「お宝」である。
6連戦がどんな展開になったのか?は「記念号」に譲る。
それより、もっと面白かったのは、ボーリング同好会のマネージャーだった武部勤さんの「あの時、私は」である。(武部勤さんは、自民党の幹事長を務めた先輩)。
この一文によれば、ボーリング同好会は合宿の打上げに、男だけで、船橋の「若松劇場」(過激なストリップ小屋)に集まる予定だったが、女性部員がこれに気づき「仲間じゃないの、どこに行こうが、みんなに声をかけないのはおかしい!」と激しく抗議。
結局、女性部員も鑑賞。踊り子さんから「飛び入り歓迎よ!」と言われ、赤面したとか……いい時代だった。
さて、5日、6日共に野暮用で忙しくて……止む無く、6日のブログをまた休んでしまった。ごめんなさい。
気力体力、今ひとつ。頑張らなければ。
<何だか分からない今日の名文句>
青春は「都の西北 早稲田の杜に」眠る