新潟水俣病の50年

 14日付けの毎日新聞「記者の目」欄は塚本恒記者(新潟支局)の「新潟水俣病の半世紀」。興味深く読んだ。
 塚本記者は「公式確認から50年目を迎えた新潟水俣病は、先月新たに損害賠償や患者認定を求める訴訟が相次いで起こされ、解決にはほど遠い状況だ。すべては、患者を切り捨てる国の厳しい認定基準に起因する」と書いている。
 新潟水俣病には、特別、思い出がある。
 第二水俣病と言われる「新潟水俣病」は、昭和電工の廃液によって引き起こされた公害病。1965年(昭和40年)に確認された。四大公害病のひとつである。
 僕が毎日新聞に入社して、新潟支局に赴任した67年頃、昭和電工側は「原因は新潟地震によって川に流出した農薬」と主張していた。
 1964年に発生した新潟地震。水銀農薬を保管していた新潟港埠頭倉庫が浸水する被害を受け、そのとき農薬が流出した、という主張だった。
 駆け出しの僕は、鹿瀬工場に日参して「原因」を調べたが、新潟県当局は地震に被災した農薬の全量を把握しており、いずれも安全に処理されていたから、昭和電工の言い分には無理があった。
 その昭和電工から「駆け出しの新米記者」に、盆暮れの「付け届け」が届く。その度に「こんなもの受け取りるか!」と怒り半分で、送り返しすのは「馬鹿馬鹿しい作業」だった。
 あれから、約半世紀。未だに、患者認定が終わらない。
 死亡患者の遺族の一人が法廷で「父は悶え、苦しみ……犬のように、猛獣のように狂い死にました」と証言したのが、耳に残っている。
 公害病は悲惨で、いつまでたっても、解決の道が見つからない。
 このところ、寒い日が続く。15日は東京でも、大雪の予報。13日夜、コンビニに出かけ、食料品を準備した。
 去年1月14日の大雪で、タクシーが坂道で立ち往生。右半身麻痺の当方、歩くに歩けず、柳橋の坂道で「孤立」してしまった。

<何だか分からない今日の名文句>
大都会の冬こもり作戦(笑)