今、10日午前3時、某宗教家が生前、話された講義を読でいる。
この人物は「観念的な非戦論に反対だ!」と言う。
こんな立派な人でも、国のために死ね!というのか? 意外だった。
実は、憲法改正(改悪?)論争の本質は「市民は国のための死ねるのか?」の一点に掛かっている。
ルソーは「社会契約論」で「国家が市民に向かって『お前が死ぬことが国家に役立つ』という時、市民は祖国のために死ななければならない」と書いた。
それが「契約」だ!というのだ。(ルソーの理想は、政治が一般意志に服従するというものであり、絶対的な人民主権(国民主権)となる、という前提で、ものを論じているが)
我々は、この主張を認めるか?
(国民主権を前提にしてではあるが)戦争を容認すべきか?
僕は、このルソーの主張を認めない。なぜなら「戦争」をする国の判断は、どの時代でも、どんなところでも、いつも間違っているからだ。
国のために死ぬことを認める!ということは、自爆テロを認めることだ。
国家より「世界平和」だ!
それが「契約」である。
安倍さんの安易な改憲を認めれば、国が滅び、地球が無くなる。
ルソーの時代とは違うのだ。
<何だか分からない今日の名文句>
憲法による「犬死」