23日はご彼岸。牧家の墓のある深川・閻魔堂へ。谷中霊園の宗教家・大木保之佑(養父)の墓も参拝した。小さな保之佑の墓の近くに、見るからに立派な「条野採菊(本名は条野伝平。号は山々亭有人)」の墓がある。ここも参拝した。
伝平は幕末から明治初期のジャーナリスト。日本橋長谷川町(現・日本橋堀留町2丁目)の地本問屋だったが、本郷三丁目の呉服屋伊豆倉の番頭を務めるかたわら、17歳頃から五代目川柳こと水谷緑亭に弟子入りし、物書きとして、頭角をあらわした。
慶応元年、福地源一郎創刊の『江湖新聞』に広岡幸助・西田伝助と参画したが、佐幕的編集のゆえに翌月廃刊。明治5年、西田伝助、落合幾次郎と共に、東京初の日刊紙『東京日日新聞』を発刊した。今の毎日新聞である。
東京日日新聞は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺、柳橋1丁目)の条野の家からスタートした。僕の仕事場から250メートルしか、離れていない。僕が毎日新聞社に入社したのも、不思議な縁である。
一時、東京日日新聞は、政府擁護の論陣を張る御用新聞となった時もあり、自由民権派の政論新聞と対抗したが、長い歴史で見れば、概ね「反権力」だった。
今の毎日新聞は?
一介の記者だが、伝平の墓の前で、反権力の言論(平和主義)を約束した。
25日毎日新聞夕刊コラム「牧太郎の大きな声では言えないが」は「入社半年で会社を辞める? 冗談じゃない!」という話を書いた。読んでくれ。
<何だか分からない今日の名文句>
「言論の横綱」たれ!