力士の始祖「野見宿禰」は相手を蹴り殺している。
『日本書紀』によると、垂仁天皇7年7月7日、天覧試合で「野見宿禰」は、力自慢の「当麻蹶速」を相手に蹴り、腰を折って殺した。そのまま宮廷に仕えている。
(のちに、埴輪を考案して、殉死の悪習に代えて墳墓に立てることを提言した人物でもある)
当時、この力比べは「角力」と呼ばれた。日本書紀では、野見宿禰と當麻蹶速の「力比べ」を「捔力」と漢文で書き「スマヒトラシム」と訓読したらしい。
だから日本人にとって「すもう」を「角力」。「角力」は命がけの格闘技だった。(この頃は「蹴り」が最大の“技”だった)
明治時代になって「すもう」は「相撲」と書くようになった。
見物客の見せる興行になったから、幾分、柔らかな表現になったのだろう。(「殴り合い」という意味だけど)
このところの「一人横綱」稀勢の里を見ていると……気の毒である。「相撲」なら、八百長も許されるが、稀勢の里は絶対、八百長をしない。だから、体調が狂うと勝てない。
「角力」の真剣勝負を目指しているので……彼は休場もしない。
でも、無理するなよ。
某国の力士たちは「助け合い」しているんだから。無理するなよ!
引退したって、誰も文句を言わないから。
<何だか分からない今日の名文句>
不老不死の力士はいない!