田中角栄、没30年。角栄は「自民党が潰れても良い」と言っていた!

 田中角栄さんが亡くなって30年。

 角さんを直接、時間を掛け、取材することが出来なっかが、こんな「思い出」がある。

 師匠・戸川 猪佐武さんが昭和58年、急死した。

 当時、戸川さんはNo.1の政治評論家。(父親は小説家で平塚市市長を務めた戸川貞雄さん、弟は小説家の菊村到さん。戸川さんの「小説吉田学校」が大ヒット。映画になっていた)

 で、当時の中曽根首相が弔辞を読むことになって、原稿を大先輩「渡辺恒雄さん」(読売)が作った。(戸川さんと渡辺さんはかつて「読売」の同僚だった)

 ところが、突如、角栄さんが「俺も弔辞を読む!」と言い出した。

 で、急遽、頼まれて、僕が「原稿」を書くことになった。

 葬儀の当日、緊張したことを思い出す。

 心配なく、田中さんは「一字一句」間違いなく読んでくれた。

 ただ、一箇所、「角福戦争で、君は僕を応援してくれた」というクダリ。角さんは「角福戦争の時、戸川君は、僕の汗みどろになったワイシャツ姿の背中を抱えて、応援してくれた」と話した。  

 この文句で、心がこもった「弔辞」になっていた。

 もし田中角栄が新聞社に入っていたら「政治部記者」ではなく「社会部」だろう!と思った。

 角さんはいつも「男」だった。

 亡くなってから30年。

 TBSの倉庫に、日中国交正常化を成し遂げた田中角栄元総理の「肉声」が残っていたらしい。

 1972年7月、日本列島改造論を唱え、第64代内閣総理大臣に就任した角さん。

 「過去数十年にわたって、日中関係は遺憾ながら不幸な経過を辿って参りました。この間、我が国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことに、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります」と演説した。

 その上、周囲には「自由民主党がつぶれても、やむを得ん。自由民主党なんて潰れたって、日本が潰れなければいいんだ。政党の看板の掛け替えはききますが、国家民族の看板の掛け替えはきかない」と決意を明らかにしていた。

 今、ライバル福田赳夫さんが作った「清和会」が自民党の大ピンチを演じている。

 複雑な思いだ。

 さて、13日夜、転倒して、歩きづらくなった。

 病院の検査では「頭」に異常はない!と言われたが、ちょっぴり苦労している。

 年末、頑張るしかない。

 付き合いが出来ず、申し訳ない。

<何だか分からない今日の名文句>

角福戦争は擬似階級闘争!

(旧制高等)小学校卒の角栄

一高-東大-大蔵省とエリート福田