「梅川事件の亘さん」が逝く
東京・内幸町の日本記者クラブ。この季節、9階のレストランから見るビルの谷間の夜景が一段と綺麗になる。
日没が遅くなって、午後6時半過ぎまで、日比谷公園の樹木がハッキリ見える。そのあと、公園を取り囲む高層ビル群の明かりが、次第に鮮明になって……その瞬間、あたりは一段と美しくなる。
24日、戸籍上の姉・小林蓮子さんの密葬を済まし、毎日新聞の同僚と「夜景」を肴に飲んでいたら、同僚の携帯に、大阪本社の社会部長から「亘さんが亡くなった」という悲しい知らせが入ってきた。
亘英太郎さん。毎日新聞の敏腕社会部記者。論説副委員長を務めたあと、奈良産業大学教授になっていた。
兄貴分の鳥ちゃん(鳥越俊太郎)の同期生だったこともあって、何度か、京都で飲んだこともある。
数年前、東京駅でばったり会って「関西へ来たら連絡しろよ」と言ってくれた。
それが、どうして?
ガンの手術後が悪かったのか……急性循環不全を起こしたらしい。
69歳。 若すぎるじゃないか?
<葬儀は27日午後1時、京都市南区西九条池ノ内町60の公益社南ブライトホール。喪主は妻泰子(やすこ)さん>
亘さんは「大阪本社の看板記者」で、東京本社の当方は一緒に仕事をしたことはない。が、鮮明に覚えているのが「梅川事件の取材」である。
1979年(昭和54年)1月26日、大阪府大阪市住吉区万代二丁目の三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質に立てこもった。
犯人・梅川昭美は42時間、立てこもり、警察官2名、行員2名(うち1名は支店長)の計4名を射殺、女性行員を裸にして盾代わりに並ばせる。映画『ソドムの市』で死人の儀式を行うワンシーンの話を出した上で、「そんなら耳を切り取ってこい」と命令。命じられた行員は激しく抵抗するが、散弾銃で撃たれた遺体と猟銃で狙われている恐怖で、死んだふりをしていた行員の左耳を切除し、その耳を梅川に差し出した。
昭和史に残る大事件。亘さんはこの事件の先頭にたって取材した。
梅川は射殺。事件後、毎日新聞社会部は梅川の軌跡を徹底的に取材して『破滅 梅川昭美の三十年』を出版した。
(読売新聞大阪社会部にも『ドキュメント新聞記者 三菱銀行事件の42時間』がある)
その本を作ったのも、亘さんが中心だった。大学教授になってからも「文芸春秋」2010年10月号「真相 未解決事件35」の企画で「梅川昭美は悪しき先駆者か」を発表している。
我々にとっては「梅川事件の亘さん」だった。
新聞記者は、「◯◯事件の××」と呼ばれるのは本望? でも……あまりにも、若すぎる。
謹んで、合掌。
<何だか分からない今日の名文句>
光陰に関守なし
ただし、事件の光陰には記者あり