「平成」を提案者は東洋史学者・山本達郎さんか?陽明学者・安岡正篤さんか?
今日26日も新元号のことを書く。
昭和64年1月7日午前6時33分、昭和天皇が亡くなった。
この日午後1時、官邸で「元号に関する懇談会」。政府から委員に「平成」「修文」「正化」の三つ案が示された。
で、最終的に「懇談会」の総意で「平成」と決まった!ということになっているが、僕は、それ以前に「平成」と決まっていた!と考える。
その理由は
①三案のうち、政府側から一番先に示されたのが「平成」。委員の一人、西原春夫さん(早稲田大元総長)は「政府の第一候補は『平成』なのかな?と思った」と後日、話している。
②三案はアルファベットの頭文字が「平成=H」「修文=S」「正化=S」。つまり「修文」「正化」は「S」で「昭和」と同じ。当時の内閣内政審議室長であった的場順三さんが明治以降の元号のアルファベット頭文字を順に並べ「MTSの後はHが据わりが良いでしょう」と、懇談会の席上、話している、と聞いた。「修文」「正化」はアルファベット頭文字で、元々“候補”ではあり得なかった。
以上、二つの理由で、僕は「懇談会」以前に「平成」と決まっていた!と考えている。
つまり、当時の竹下登首相が「平成」と決めていた。
何故、竹下さんは「平成」に拘ったのか?
その秘密は「提案者」の存在と関係する。
「平成」を提案したのは、東洋史学者で東京大学名誉教授の山本達郎さんである。それは事実だが、もう一人、「平成」を提案した人物がいる。
自民党歴代内閣の“相談役”陽明学者・安岡正篤さんである。
竹下元首相は平成2年1月17日、兵庫県の地方遊説で「元号は昭和39(1964)年私が官房副長官の時、佐藤栄作首相から『純粋な手続きとして考えるように』と言われ、安岡先生ら何人かの学者に候補を頂き、官房長官室の金庫にしまっておいた。私の内閣で改元ということになり候補の中から僕が『平成』を選ばせてもらった」と話している。
新元号は、佐藤・竹下の保守本流が四半世紀前から準備していた!保守本流が(「元号」を決めるほど)絶対権力だった!と言いたいかったのだろう。
(官僚のトップだった、改元の責任者、的場さんは「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と述べ、当時、亡くなっていた安岡説を否定している)
事実ははっきりしない。
でも、改元は「権力行使のシンボル」になる。
今回は?
もちろん、安倍一強内閣らしい「勇ましい元号」になるのだろう(笑)
ここ数日、色々な「候補作」を聞いた。でも、確定的な情報はない。
敢えて予想すれば「アルファベットでK」ではないのか?
新元号発表まで、一週間である。
<何だか分からない今日の名文句>
当たるも八卦当たらぬも八卦
(「八卦」とは……陰と陽を示す算木)