山本太郎の「れいわ新選組」に“奇跡の2議席”が見えてきた!
大昔のことを思い出した。1977年の参院選のことを思い出した。
ある日、面識のないタレント・八代英太さんから電話が掛かってきた。
八代さんは日本テレビ「お昼のワイドショー」に中山千夏さんと共に司会者として活躍していたが、1973年6月3日、 愛知県刈谷市の市民会館で行われた「畠山みどりの歌謡ショー」に司会として出演中、舞台下に転落。脊髄損傷の重傷を負い、下半身不随なった。車椅子生活だった。
「牧さんに相談したいことがある」と言うのだ。
当時、僕は32歳の毎日新聞社会部の事件記者。芸能記者ではないのに「芸能界の裏の裏」をスクープして、ちょっと「業界」では有名だった。
八代さんのお宅に行くと「参院選に出たい!どうしたら良いのか?教えてくれ」と言うのだ。
「一人で選挙なんて出来ないですよ」と言うと、「仲間はいる」。
別室に「雨宮さん」(八代さんの山梨県立石和高等学校の同級生・広告会社のサラリーマン)と「大石さん」(元「土建屋の大将」。黛じゅんのヒット曲「雲に乗りたい」を作詞した車椅子の仲間)が控えていた。
三人は「障害者の国会議員を作りたいのだ!」という。
「よし分かった!」で、手助けすることにした。記者会見をセットして、僕は彼らを「車椅子党」と命名。毎日新聞で「八代さんの訴え」を報道した。
たった3人の「孤独な戦い」。応援するのが江戸っ子としては当たり前だった。
カネがなかった。「ボランティア」なんて言葉はなかった。大石さんが羽振り良い時「愛人」だった6人の女性がタダで協力してくれた。
週刊誌で「泡沫候補」と揶揄された。が、僕は仕事は放り投げ、選挙期間中、彼の選挙カーの後ろにいた。
1977年7月10日 第11回参議院選挙。全国区で無所属の八代さんは84万票を獲得して当選した。奇跡だった。
「雨宮さん」は選挙運動に夢中になったこともあって、勤め先を辞めざるを得なくなり独立。広告会社を作った。このブログに時々、登場する「雨宮jr」は「雨宮さん」の倅である。
「大石さん」は作詞を続けながら、八代さんの秘書になった。
(八代さんは「障害者世界組織」の結成、アジア太平洋議長となったり活躍した。全国区が比例区に改められると、無所属候補は比例区からは立候補できなくなったため、八代は福祉党を結成。その後、八代さんは自民党に入った。「雨宮さん」「大石さん」と僕は「意見が違う」と八代さんと別れ別れになってしまったが「雨宮さん」「大石さん」と僕の三人は、二人が亡くなるまで親友だった)
あの時は「青春」だった。
それに付けても、山本太郎「れいわ新選組」の戦いが気になって仕方ない。
山本太郎は、比例区に今回の選挙から導入される、政党が定めた順位で当選者が決まる「比例特定枠」の制度を使った。
難病のALSの当事者で全身まひギタリストとして活動する、舩後靖彦さんが1位、脳性まひで重度障がいがある、全国公的介護保障要求者組合・書記長などを務める木村英子さんが2位。
「れいわ新選組」の戦いは「障害者を国会に!」という戦いでもある。
毎日新聞の参院選の予想が昨日7月15日朝刊に載った。
「れいわ新選組は比例で、1〜2議席を獲得しそうだ」
2議席が見えてきた。奇跡は起こる!
山本太郎が議員で居続けるためには、2人を上げたうえで、自分も圧倒的な票を獲得しないといけない。
願わくば「比例区で3人!」。
それにしても、テレビや新聞は何故「少数党」を無視するのか?
八代さんが立った時、僕は社会面トップで「車椅子党」を報道したのに。
今日7月16日発売のサンデー毎日の「牧太郎の青い空白い雲 727回」では
【この国のメディアは「政権」に擦り寄る”太鼓持ち”?】を書いた。読んでくれ!
「れいわ新選組」に興味のある方、一度、山本太郎の意見を聞いて欲しい。
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【山本太郎 スケジュール】
<7月16日(火)>
12:00-13:00 岩手・盛岡駅東口
19:00-20:00 北海道・札幌駅南口広場
<7月17日(水)>
13:00-14:00 秋田・秋田駅西口
18:30-20:00 宮城・仙台駅西口デッキ
<7月18日(木)>
12:00-13:30 福島・福島駅東口
15:30-16:30 栃木・宇都宮駅西口
19:00-20:00 茨城・水戸駅南口デッキ
<7月19日(金)>
12:00-13:00 愛知・名古屋栄松坂屋前
17:00-20:00 東京・品川駅港南口「れいわ祭2」
<7月20日(土)>
12:00-13:00 山梨・甲府駅南口
16:00-17:30 東京・多摩センター駅南口
16:00-20:00 東京・新宿駅西口小田急デパート前