戦時の頃、中曽根「海軍主計士官」(元首相)は慰安所を作ったのか?
中曽根康弘元首相が亡くなった。101歳だった。
中曽根さんには感謝している。毎日新聞の官邸キャップとして、中曽根政権を徹底取材。「中曽根とは何だったのか」(草思社)「中曽根政権・1806日」(行研)「小説土光臨調」(角川文庫)といった本も書かせてもらった。
どちらかと言えば、僕は中曽根さんを批判していた方だったが、それにも関わらず、親しくしていただいた。感謝している。(最も、行政管理庁長官の頃、中曽根さんは、批判記事を書いた僕の股間を左手で力一杯、押し潰し「本筋を書け!」と叫び、僕を慌てさせたこともあったけど。まあ、良い思い出だ)
一方、中曽根さんには「謎」も多かった。
例えば、海軍主計士官時代のことだ。
中曽根さんは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)の中で、海軍主計士官時代の思い出話を披露。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんな彼らのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」(「二十三歳で三千人の総指揮官」)と書いている。
インドネシア上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまった!ということなのか?
日韓の対立の火種「慰安婦問題」の全貌を首相になった中曽根さんは黙って「あの世に」持って行ってしまった。少し、残念だ。
さて「桜」一色の政局。
安倍さん、突然、メディアの官邸キャップとの懇親会を開催。「桜を見る会」疑惑は書くな!と、それとなく「脅し」を掛けたらしい。
ところが、毎日新聞だけが、この懇親会参加を拒否した。当然である。
ネットには
<首相の進退が問われる状況下で 首相との酒席をきちんと蹴っ飛ばした毎日新聞の姿勢と矜持を断固支持します>
<朝日新聞を毎日に変えました>などなど。
頑張れ!毎日新聞!
権力者とケンカするのが、新聞記者なんだから。
<何だか分からない今日の名文句>
したたかと言われて久し栗をむく
(中曽根さん・自慢の一句?)