東京新聞「元」政治部・寺本峯祥記者の「海部俊樹・評伝」
海部俊樹・元首相が亡くなった。
思い出がいっぱいある。毎日新聞政治部の「自民党・三木派→河本派」を担当していた頃、海部さんは「派閥のスポークスマン」。何かにつけて厄介になった。
当方は雄弁会ではなかったが、二人の「知り合い」が重なったりして、早稲田の先輩・後輩の仲だった。
政治部からサンデー毎日に代わり、そこで「宇野首相のスキャンダル」をスクープした結果、海部さんが首相になったりして、一部から「マキが先輩のため、宇野スキャンダルを書いた」と言われたらしいが、そんなことは全くない。
あの時「清廉」な海部さんしか首相になる人はいなかった。素晴らしい政治家だった。
週末、新聞各紙の評伝を読んだ。
懐かし名前を見つけた。「東京新聞(中日新聞)元政治部・寺本峯祥」。
河本派で、首相官邸で、一緒に取材した仲だったが、その後、どんな道を選んだのか?
その彼が、当時の敏腕記者が海部さんの「評伝」を書いている。
「元記者」に書かせる「東京新聞」って、素晴らしい。(読んだ限りでは)どの新聞より詳しい評伝だった。
「盗用」と言われそうだが「日本魁新聞社」のブロクの読者にも読んで貰いたいので、いつもの<何だか分からない今日の名文句>の代わりに、以下、「寺本原稿」を勝手に転載する。読んでくれ!
海部さん!
寺本が、上手に「本当のこと」を書いているから、安心してくれ!
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【政界屈指の雄弁家】
海部俊樹さんの人生のハイライトは、本人自身も想定外の首相に選ばれたことだった。平成が始まった年はリクルート事件の汚染まみれで有力候補が軒並み身動きできない政局だった。スキャンダルで倒れた竹下、宇野政権のリリーフのリリーフとして登場した海部さんの閣僚経験は文相だけ。自民党3役にもならず、弱小派閥の領袖でさえなかった。政治部の官邸キャップとして接した海部さんは、その誠実な人柄で次第に国民の心をとらえていった。
「僕の最終目標は党愛知県連会長。総裁選に出馬へ、と地元紙の中日さんに1回でも載せてもらえばええ」というのが首相就任以前の口癖だった。
ペンで何色もの線を引いた新聞各紙の社説の切り抜きの束が首相執務室の机の引き出しに入れられているのを偶然に見たことがある。問うてみると「文教族だから経済や外交のことはようわからせん。役所から説明資料が大量に届くが、国会の答弁資料は、新聞の社説があればそれでええ」とあっけらかんと答えた。
あけっ広げで庶民的な性格。就任当時58歳という若さ。無類の愛妻家。クリーンな金銭感覚。政界屈指の雄弁家。こうした人柄と清新なイメージで、就任翌年早々の解散、総選挙で自民党の安定多数を獲得、リリーフ役を見事に果たした。だが、リリーフ政権のピークはここまでだった。
日米経済摩擦の構造協議では目立った結果は出せなかった。湾岸戦争では多額の資金協力をしたが、米国から「金だけでなく汗を流す貢献を」と批判された。さらに、選挙制度を変える政治改革を主張したが、支持基盤の竹下派の抵抗で、あえなく政権は崩壊した。
それでも、世論調査では最後まで高支持率を維持した。東西冷戦が終了し、バブル経済がはじけた激動の中、「一生懸命」を繰り返す海部さんの人柄に、政策では目に見える成果はなくとも、誠実さを何よりも尊ぶ雰囲気が当時の世論にはまだ残っていた。
首相退任後の海部さんのお気に入りの言葉は「我をもって古(いにしえ)となす」だった。在任中、苦渋の末に湾岸戦争後のペルシャ湾に掃海艇を派遣。その後の国際平和協力、災害救援への自衛隊海外派遣に道を開き、日本の国際貢献活動を定着させた。「古となす」とは、新しい時代への先鞭をつけた本人なりの自負だろう。
首相退任後の自民党離党、復党をめぐる動きや衆院選落選を見るにつけ、良くも悪くも「戦後民主主義」教育を体現した誠実で不器用な政治家だった。(元政治部・寺本峯祥)