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「浅間山荘事件」から50年。 豪雪のあの日、特ダネ記者・中島健一郎に出会った

 1972年2月19日、長野県・南軽井沢「レイクニュータウン」にある保養所「浅間山荘」に新左翼組織・連合赤軍のメンバー5人が、管理人の妻を人質に立て籠もった。

 籠城10日目の28日、警視庁と長野県警は山荘を包囲。猟銃を持つメンバーと銃撃戦になった。

 その日、僕は「極寒」の現場にいた。

 数メートル先に「猟銃の弾」がやってくる「危険過ぎる取材」。ただ、呆然としていた。

 警察と犯人の攻防はテレビで生中継され、最高視聴率は89%? ほとんどの日本人が「この模様」を見ていたのだが、皮肉にも、現場にいた僕は、そのホンの一部しか目撃出来ず、正直言って「何が起こったのか?」まるで分からなかった。

 27歳だった。毎日新聞の「サツ周り」。普段、築地警察の記者クラブに居て「街ダネ」を書いていた「駆け出し」だった。

 突然、起こった大事件に巻き込まれ、ただ慌ててばかりしていた。何も「仕事」にならなかった。

 そんな中、長野支局勤務の「中島健一郎」という男に出会った。

 人質の妻が解放されると、彼は現場から姿を消した。

 先回りしての病院の庭の草むらに潜り込んで、建物の窓越しに「事情聴取」のやり取りをキャッチしたのだ。(「盗聴器」を使ったメディアもあったらしい)

 大スクープだった。

 僕と同い年の中島君は5月の人事異動で社会部にやって来た。

 普通は「サツ周り」からスタートするのだが、中島君は「警視庁一課担当」。大抜擢だった。

 NHKの人気ドラマ「事件記者」のファンだった僕は「警視庁」を志望していたが、この時の人事異動で「地域版」を書く社会部東支局勤務を命じられ、がっくりしたのを覚えている。

 警視庁担当になった中島記者は特ダネを連発した。殺人犯を探し出す名人だった。

 一年遅れで「警視庁捜査二課」担当になった僕は、相変わらず出来が悪く、毎日のように読売新聞(山室さんと言う敏腕記者がいた)に抜かれ、警視庁キャップから「1課の健ちゃんを見習え!」と怒られていたものだ。

 中島君とは仲が良かった。彼から、人生相談を受けたこともある。

 彼はワシントン特派員を経て、警視庁キャップから社会部長。王道を行った。

 サンデー毎日の編集長だった僕が脳卒中で倒れた時、何も出来なくなった僕を「社会部員」として採用してくれた。

 毎年「浅間山荘事件」のころになると、中島君のことを思い出す。

 コロナ騒動で、しばらく会えないが、コロナが沈静化すれば、思い出話が出来るだろう。

<何だか分からない今日の名文句>

四半世紀=25年間

半世紀=50年間

三四半世紀=75年間

世紀=100年間