明治9年「神風連の乱」を学ぶ
昨日のブログで、近くの神社が「初穂料」の”のし袋”をプレゼント?してくれたのに”違和感”を感じた、と書いたが「神官」という職業の役割って、何だろうか?
特別、地域の核というわけでもないし、政治的な役割も思い当たらないが……その辺りのことを勉強してみたら、明治9年10月24日の「神風連の乱」にでくわした。
西南の役の3ヶ月前、明治政府の急激な欧風化政策に対して「敬神党」と呼ばれた「神職」を中心とする人々が挙兵し、わずかな手勢で熊本鎮台を襲撃した。「神風連の乱」である。
敬神党は、旧肥後藩士族の三大派閥の一つ。肥後藩は、教育方針をめぐり3派閥に分かれ、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した「教育と政治の結びつき」を重視する実学党、それに対して、林桜園を指導者にする、国学・神道を重視する勤皇党(=敬神党)が存在した。
河上彦斎・太田黒伴雄・加屋霽堅らは、明治政府への強い不満を抱いたが、神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていたらしい。
その構成員の多くが「神職」。新開大神宮で神職である太田黒伴雄が「宇気比」(うけい)と呼ばれる誓約祈祷を行い、神託のままに挙兵した。
乱は失敗に終わり、首領、太田黒伴雄以下123人が死亡、もしくは自刃。この時、彼ら「神職」は憂国の士だった。
明治以降、「神職」が反乱を起こしたのは(まだ、不勉強で自信はないが)その時だけらしい。
現代の「神職」は、政治的なスタンスは皆無? 代の混迷を意識しているのか? になるところだ。
この末世、「平成の神風連の乱」があってもおかしくないが……。
神社が「錬金術」に走っているとしたら……単なる観光産業だ!
今、13日の午前4時。ちょっと寒い。「13日の金曜日」は不吉で大嫌い……勉強はこのくらいにして、取り合えず、眠ろうか。
<何だか分からない今日の名文句>
神事は本也、人事は末也(林櫻園の教え)